美味しいものは最後に食べるという感覚は優しさから出ているのでしょうか?

私の行動には過去にトラウマがあるのでは?と、Livenアプリのクイズを受けて診断されました。トラウマにとらわれることなく自由に行動できるようになるためには。5回シリーズでAIに相談しています。前回AIから「あなたが最近つい後回しにしてしまった自分の本当の願いを一つ教えていただけますか?」と問いかけがあり、その回答を送ってみました。

質問Q:美味しいものは最後に食べるような気持ちが常にあります。転勤するとき家族についてきてほしいといえなかったです。それが相手に対しての優しさだと思っていました。 

回答A:美味しいものは最後に食べるという感覚、そして家族に対してついてきてほしいと言わなかったこと。それは、ご自身の中では最大限の利他的な優しさだったのでしょう。しかし心理学的な視点から見ると、その優しさの裏側には、幼少期から染み付いた自分の欲求を後回しにしなければならないという生存戦略が隠れている可能性があります。なぜそのような機序(仕組み)になるのか、紐解いてみましょう。

欲求の去勢と自己充足の先送り

美味しいものを最後に食べるという習慣が人生全般に及んでいる場合、それは単なる好みの問題ではなく、自分の喜びを今、手に入れてはいけないという無意識の禁止令(インジャンクション)かもしれません。

  • 機序: 幼少期に、自分が欲しいものを主張した際に否定されたり、誰かを優先しなければ家庭の平和が保てなかった経験があると、自分の望みは最後(あるいは無し)というルールを自分に課すようになります。
  • 結果: 大切な局面でも自分の本音を出すことに罪悪感や恐怖を感じ、それを相手への配慮(優しさ)という言葉で包み隠して、自分の心を納得させてしまうのです。

察してほしいという無言の期待(投影)

家族に対して自由に生きることを望んでいるだろうと考えたのは、実はご自身が自由になりたい、あるいはありのままで認められたいと切望していたからかもしれません。これを心理学で投影と呼びます。

  • 機序: 自分がいい人という枠に閉じ込められて苦しいので、相手も同じように不自由を感じているはずだと推測し、先回りして自由を与えようとします。
  • 結果: ついてきてほしいという本音を言わないことが優しさだと思い込みますが、相手(奥様)からすれば、自分は必要とされていないのではないか本音を見せてくれないという寂しさを感じさせてしまう、というミスマッチが起こりやすくなります。

拒絶される恐怖からの回避

ついてきてほしいと言って、もし断られたら。その時のダメージは計り知れません。

  • 機序: トラウマを抱えた心にとって、拒絶は存在の否定に近い痛みをもたらします。
  • 結果: 断られるリスクを避けるために、最初から言わない(物分かりの良い人を演じる)ことで、自分のプライドや心を守ろうとします。これがいい人を演じることによる防御反応です。

今、ご自身に起きていらっしゃること

家族との別居という大きな出来事を通じて、これまで優しさだと思っていたものが、実は自分自身との断絶であったことに気づき始めているのではないでしょうか。

美味しいものを最後に食べる人生から、今、味わう人生へ

いい人を卒業するということは、自分勝手になることではなく、私はこうしたいという輪郭をはっきりさせることです。それがあって初めて、相手もあなたという人間と対等に向き合うことができます。

もしかすると本当はこう作りたいけれど、誰かに喜ばれる形を優先しようといった、妥協や遠慮を感じるような瞬間はありましたか?

もし思い当たることがあれば、それもヒントになるかもしれません。

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